食・栄養資産という考え方 ── 食の一生を知る

老後の備えというと、多くの場合は金融の話になります。総務省「家計調査」の2025年平均によれば、65歳以上の夫婦のみの無職世帯の消費支出は月263,979円、うち食料は78,964円でした。老後資金の試算は、家計調査の数値を土台に組み立てられています。

ただし家計調査が記録しているのは支払われた金額のみです。栄養が足りているかどうかも、何をどのように食べたかも、金額からは読み取れません。老後の食を左右する要素には、購買力とは別の軸があります。


第1部 変わっていく食べ方のうち、一つだけ知られていない

食べ方は生涯にわたって変わる

食の好みは一生を通じて同じではありません。加齢に伴い、味の感じ方が変わり、好みが変わり、食べられる形が変わります。時代の流行による変化もありますが、年齢による変化も確実に重なっていきます。

三つの変化のうち、味の感じ方と好みの変化は、日々の生活の中で少しずつ経験できます。以前は苦手だった食材が食べられるようになった、味付けを濃く感じるようになった、といった気づきは誰にでも起こります。

形の変化だけが可視化されない

一方、食べられる形が変わっていくという事実に、健康なうちに触れる機会はほとんどありません。介護に関わった方や、医療・福祉の現場にいる方であれば知る機会がありますが、全体で見れば少数です。

噛む力や飲み込む力が低下したとき、食事は形を変えて提供されます。刻む、やわらかく煮る、なめらかにする、とろみをつけるといった調整には段階があり、専門職の間では共通の分類(注1)が用いられています。段階が存在すること自体、現役世代にはほとんど知られていません。

薄味と、形の変化は同じではない

塩分を控えることは、健康づくりの文脈で繰り返し語られてきました。不満は残るとしても、必要性を理解して受け入れる方は一定数います。

形の調整は、性質が異なります。薄味の味噌汁は、薄くなっても味噌汁のままです。料理としての枠は保たれ、量の修正にとどまります。一方、なめらかにした焼き魚は、焼き魚として認識されなくなります。料理の枠そのものが移動する変化です。

情報のないまま形の調整が必要になったとき、自分が思い描く食事と、機能的に食べられる食事との間に隔たりが生まれます。隔たりの受け止め方は、事前に知っていたかどうかで変わる可能性があります。


第2部 食・栄養資産という考え方

前払いとしての知識

食べた栄養素そのものを貯めておくことはできません。身体は絶えず作り替えられ、摂ったものは使われて出ていきます。

積み上がるのは別のものです。食に関する知識、出会ってきた味と食感の幅、そして骨や筋肉といった身体の構造。三つをまとめて「食栄養資産」と呼ぶことにします。将来のある時点で支払うことになる適応の負担を、前もって少しずつ払っておく、という意味での資産です。老後資金と異なるのは、使う場面が来なければ来ないで構わない点にあります。

選択肢の幅は、すでに食文化の中にある

やわらかい食事は、妥協の産物ではありません。茶碗蒸し、卵豆腐、白和え、とろろ、あんかけ、粥。日本の食卓には、もともとなめらかで飲み込みやすい料理が、もてなしの側に置かれています。物性としては調整食に近いものが、ごちそうとして成立してきました。

離乳食の言葉づかいも同じ構造を持っています。なめらかな状態から始まり、舌でつぶせる、歯ぐきでつぶせる、と段階が上がっていく。方向が逆なだけで、形を段階で捉える文法は共通しています。子どもの食事を用意した経験のある方は、形態の考え方を一度習得しているとも言えます。

今の行動が効く領域と、知っておくだけの領域

食栄養資産には、性質の異なる二つの部分があります。混同しないほうが扱いやすくなります。

領域性質例
今の行動が効く積み上げと維持が可能骨量、筋量、食経験の幅
知っておくだけ避けがたい変化への理解味覚の変化、形態の段階

骨量は成長期に増加し、20歳頃に最大値に達したのち、加齢に伴って減少していきます(注2)。獲得する最大値を大きくすることと、減少を最小限にとどめることが、生涯を通じた対策の基本とされています。筋肉についても、日々の食事と身体活動の積み重ねが関わります。

一方、味の感じ方の変化や、飲み込む機能の低下そのものは、努力だけで完全に避けられるものではありません。避けがたい部分まで個人の心がけの問題として扱うと、行動の指針としては機能しなくなります。

知ることの目的

早く知っておくほど受け入れが容易になる、という関係を直接検証した研究は確認できていません。現時点では、筋の通った考え方の一つ、という位置づけになります。

ただし、知る目的は明確です。衰えを先取りして恐れるためではありません。食べ方が生涯を通じて変わっていくものだと知っていれば、変化が訪れたときに、事故ではなく段階として受け取れます。同じ出来事でも、意味づけが変われば身構え方が変わります。

そして、知った先に出てくる問いは、多くの場合は前を向いたものです。好きなものを長く食べ続けるために、今から何ができるか。食べる力を保つために、日々の食事と身体をどう整えるか。老後に向けた備えとして、金額と並べて考える価値のある領域だと考えています。


(注1) 飲み込む機能に配慮した食事の段階分類として、日本摂食嚥下リハビリテーション学会による「嚥下調整食分類2021」がある。食事5段階ととろみ3段階を、形態の面から整理したもの。

(注2) 骨量の推移と最大骨量については、厚生労働省 e-ヘルスネットの記述による。

出典

  • 総務省統計局「家計調査報告(家計収支編)2025年(令和7年)平均結果の概要」
  • 日本摂食嚥下リハビリテーション学会「日本摂食嚥下リハビリテーション学会嚥下調整食分類2021」
  • 厚生労働省 e-ヘルスネット「骨粗鬆症の予防のための食生活」

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